耐震工学の進んだ日本であっても、大きな地震が起きるたびに人的被害が発生します。死亡者数に目が行きがちですが、負傷者数はその数倍から数百倍とケタ違いに多くなります。
死亡の原因の大半は家屋の倒壊および家具の転倒による圧死です。また、負傷の原因の大半は家具の転倒や落下物、あるいは割れたガラスによるものです。
住んでいる家が地震で倒れなかったとしても、ケガを負うどころか命を失う可能性すらあるのです。耐震性が高いかどうかに関わらず、家具の転倒防止対策は必要になります。
世の中にはいろいろな対策グッズが販売されています。家具の種類(タンス、冷蔵庫、テレビetc.)によって使い分けをしている方も多いかと思います。
しかし、最適な対策は建物の種類(戸建住宅、低層・高層マンション)によっても違うということはあまり知られていません。
構造設計者の視点から家具の転倒防止対策を見ていきます。
転倒とは
まず、なぜモノが転倒するのかを考えてみましょう。転倒防止に必要な対策を考えるうえで役に立ちます。
重心の移動
例として、背の高い家具を左から右に押す場合を考えてみましょう。
最初、押す力が小さいときには何も起こりません。ほんの少し家具が変形する程度です(下図①)。
少しずつ押す力を強くしていくと、ある地点で足元の左側が浮き上がり、足元の右側を支点にして回転し始めます(下図②)。
浮き上がり始める力の大きさは家具の形状や重さにより変化します。計算方法が知りたい方はこちらの記事をご覧ください。
一度足元が浮き上がり出すと、最初に浮き上がらせた力よりも小さな力で回転が進むようになります。浮き上がりが大きくなるにつれて、回転させるのに必要な力はどんどん小さくなっていきます(下図③)。
そして最後は押していなくても勝手に倒れてしまいます(下図④)。
なぜ勝手に倒れるのか、それは「重力」の仕業です。重力が作用する中心点である「重心」が支点の右側にあるか左側にあるかで家具の倒れる向きが決まるのです。
重心が支点の左側にある間は手を離せばまた元の位置に戻りますが、支点の右側に行ってしまうと引っ張ってやらないと倒れてしまうのです。上の図中の④を境に力が「正」から「負」に変化するのはそのためです。
「重心」と「支点」の関係が転倒に与える影響が理解できれば、なぜ「起き上がりこぼし」が何度倒しても元に戻るのかが理解できるようになります。
転倒に必要なエネルギー
先ほどの例で見たように、家具が浮き上がったからといってすぐに転倒してしまうことはありません。「重心」が「支点」を超えるまでは、手を離せば元の位置に戻ることができます。
「重心」を「重力」に逆らって移動させるにはエネルギーが必要になります。ではどのくらいのエネルギーが必要なのでしょうか。
実は、押した力と倒れた量の関係を表す線の内側の面積がそのエネルギー量に相当します。エネルギーとは「どのくらいの力」で「どのくらいの距離」を移動させたか、つまり「力」×「移動量」で求めることができるからです。
このエネルギーが大きいほど地震時に転倒しにくいことになります。そして、エネルギーを大きくするには「倒すのに必要な力」と「倒すのに必要な距離」のどちらか、あるいは両方を大きくすればよいことになります。
転倒の条件
モノの転倒には「重心」の移動が関係していました。
「重心」を移動させるには、家具を浮き上がらせるだけの力が必要です。浮き上がらせるだけの力が無ければ家具は動きません。
「重心」を移動させるには、移動量に応じたエネルギーが必要です。エネルギーが不足していれば家具は元の位置に戻ります。
つまり、家具を転倒させるには「力」と「エネルギー」の両方が必要だということです。
いくら力が大きくてもエネルギーが不足すれば転倒しませんし、いくらエネルギーが大きくても力が不足すれば転倒しません。
そして、地震の時に家具に生じる力は床が揺れる「加速度」に、エネルギーは床が揺れる「速度」に影響を受けます。
これは家具の転倒対策を考えるうえで非常に重要なことです。具体的な対策の前に長々と書いてきたのは、これを理解してほしかったからです。
建物の種類に応じた対策
戸建て住宅
戸建て住宅のような低層の建物は小刻みにガタガタと揺れやすいです。これは加速度(力)が大きく、速度(エネルギー)が小さい揺れ方です。
加速度が大きければ速度も大きくなると思いがちですが、そうとは限りません。瞬間的には加速度が大きくても、すぐに反対方向の揺れに切り変わるため速度が上がる暇がないのです。
加速度(力)が大きくなるので「力による対策」は大変になります。
突っ張り棒程度では押さえる力として十分ではありません。その点、ビスを使って固定するタイプ(L字金物、ワイヤー等)であればかなり大きな力まで耐えられます。
ビスが効果を発揮するには、ビスを留める下地がしっかりしていなければいけません。石膏ボードに留めても意味がないので、柱や間柱、胴縁といった構造材の位置を探って固定しましょう。
しかし、ビスの固定力が高いと言っても限界はあります。2階や3階では1階よりも揺れが大きくなることを考えると、別の対策の方がよさそうです。
そこでおすすめなのが「柔らかく留める」ことです。
柔らかいということはたくさん変形できる、つまり多くのエネルギーを蓄えることができるのです。また、大きな力が作用しないので、固定する壁の負担も小さくなります。
しかし、「柔らかい」対策グッズというものはあまり売られていないようです。唯一見つけられたのは不二ラテックスのL型固定式不動王だけでした。
それなりにお値段はしますが、対策効果としてはかなり高いと思います。
ちなみに、ただの輪ゴムのようなものでもいくつか束ねて使用すればある程度の効果はあるはずです。
タワーマンション
タワーマンションのような超高層の建物は大きくグラグラと揺れやすいです。これは加速度(力)が小さく、速度(エネルギー)が大きい揺れ方です。
先ほどの戸建て住宅とは逆の揺れ方になるので、転倒防止対策の方針も逆になります。
東北地方太平洋沖地震では低層階や中層階よりも高層階で多くの家具が転倒しました。高層階ほど揺れが大きくなる可能性が高いのは確かです。
しかし、それでも加速度の大きさは低層建物のせいぜい半分や1/3程度にしかなりません。加速度(力)が小さくなるので「力による対策」が簡単になるということです。
わざわざ壁に穴を開けてL字金物などで留めるより、穴あけが不要な突っ張り棒がおすすめです。また、隣戸との仕切りになる壁(戸境壁)には穴あけが禁止されていることもあるので、ビス留め自体が不可能な場合もあります。
天井が弱いと突っ張り棒の効果が発揮できませんので、設置前にしっかり確認してください。天井が下がっているところには梁(コンクリートの部材)がある可能性が高いので、突っ張り棒を固定するにはうってつけです。
免震建物
最近のタワーマンションの多くは「免震構造」を採用しています。また、中低層のマンションでも免震を売りにしているものがありますし、戸建て住宅用の免震装置も販売されています。
免震は最高の地震対策技術です。グラグラと揺れるのは超高層建物と同じですが、加速度(力)も速度(エネルギー)も小さいです。
そのため転倒防止の対策をしなくても安全性は高いと言えます。とはいえ万が一はありますので、L字金物やワイヤー、突っ張り棒などで固定しておけばいいでしょう。
制振建物
最近の超高層オフィスはほぼ確実に「制振構造」を採用しています。
タワーマンションでは免震が主流で制振はそれほど多くありませんが、大手ハウスメーカーの戸建て住宅ではいろいろな種類の制振装置を競って開発しています。
では、制振建物の場合はどのような家具の転倒防止対策が必要でしょうか。
まずタワーマンションの場合ですが、制振であることは忘れましょう。恐らくほとんど効果はありません。
タワーマンションのような重たい建物の揺れを低減するのは非常に大変です。多少制振装置を設置したところで目に見えるほどの効果はありません。
制振ではない通常のタワーマンションと同様の対策が必要になります。
次に戸建て住宅ですが、こちらも通常の戸建て住宅と同様の対策が必要になります。
確かに戸建て住宅のような軽い建物であれば、制振装置による揺れの低減効果は大きいです。ただ、それでも2階や3階の揺れを1階よりも小さくはできないのです。
1階は地面とほとんど同じ動きをしますので、2階や3階は制振であっても地面より激しく揺れることになります。であれば対策をすべきでしょう。
グッズのいらない対策
何も市販のグッズを買わなくても、いくらでも対策のしようはあります。むしろグッズは補助的なものと言えるでしょう。
重心を下げる
家具の重心を下げてやると、格段に転倒しにくくなります。転倒防止対策の基本と言えるでしょう。
家具の形状にもよりますが、重心高さを元の2/3に下げると倒れ始めるときの力が1.5倍に、倒れるのに必要なエネルギーが1.3から1.4倍程度になります。
重たいものは下の方に、軽いものは上の方に移動させましょう。
配置を変える
「転倒防止」ではありませんが、家具を倒れても問題無いところに移動させるのも効果的です。
重たいタンスが倒れてしまおうと、そこに誰もいなければ人的被害は出ません。最も危険なのは寝ているときなので、寝室の家具配置を考えてみてください。
また、ドアの前に家具が倒れると避難経路を塞いでしまいます。圧死も嫌ですが、焼死などはもっと嫌でしょうから、動線についても考えてください。
地震被害を減らすためにできることはたくさんあります。まずは手近なところから始めてみましょう。